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「お客さんに喜ばれるだるまを作る」

今井だるま福島 高崎市の伝統工芸品「高崎だるま」を代々作り続けている今井だるま店。その今井だるま店の新しい工房「NAYA」を作らせて頂きました。今回は今井さんのだるまに対する思いやこれからのことなど聞かせていただきたいと思っています。

よろしくお願いします。

 

今井 よろしくお願いします

だるまの歴史

福島 初めにだるまの歴史について教えていただいてもいいですか?

 

今井 もともと高崎だるまが生み出されたのは天明の大飢饉、浅間の大噴火によってその辺一帯が火山灰に覆われてしまい農作物を作っていた農民が生活に困っていたので、それを見かけてなんとかしなきゃということで、豊岡の山県朋五郎(やまがたともごろう)っていう農民がいたんですけれども、その人がだるまの作り方を何とか考えてお寺の住職とかに相談して自分で江戸に行って実際に作り方を学んだのが始まりと言われいて、それを作って少林山の七草大祭にだしなさいという、それを作って売って生活の足しにしなさいっていうのが高崎だるまの始まりなんです。その頃は高崎だるまではなくて、開運だるま・豊岡だるまと言われていたんです。

 

福島 へ~そう呼ばれていたんですね。

 

今井 その頃はだるまを作る技術は非常に貴重なもので、最初はみんなでやろうっていう感じだったんだけれど人気が出てくる事によって、たくさんのひとに教えるより規制をしようってなった。一時期、一子相伝じゃないけど山形県のある一定の人にしか作らせないぐらいだから今でいうブランディングなんだよね。

 

福島 なるほど。

 

今井 それが江戸時代後期から明治・大正にかけてですね。昭和の時代になってくると戦争で物がほとんどなくなってきて、だるまを作るのもほんと大変な思いで、そうにして秘伝にしていてはだるまを作れない。ある程度公開して、他の人の協力を得ながらしないとダメなんじゃないかとなってね。ある程度の人からこうにしたらとか、こんな材料もあるよとか協力を得て作り続けられてきた。

そこで戦争が終わってからの物がなくて作る時代、厳しいけどみんなで協力して作ろうじゃないか、作物を育てるのも大変だし…となった。そんな時、葦名鉄十郎盛幸(あしなてつじゅうろうもりゆき)という金沢の木彫り職人がたまたま豊岡に住み着いてだるまの木彫りをさせたらすごい上手で、いっぱい彫ってくれってことで、木彫りのだるまが増えていった。そうすると木彫りのだるまが増えると型も作れるのでだるまさんが増えた。っていう高崎だるまの歴史です。その木彫りをするのが大変で、この木型があればだるまを作るのが簡単なんですけど、これを作る職人がいなかったと。その木彫り職人の葦名氏が来たのも必然というか偶然なんです。

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福島 すごいですね。

 

今井 その人を住まわして大事にしてあがめたんです。それでだるまの木型をいっぱい作ってもらって分けていった。

 

福島 それが工業化の一歩目ですか?

 

今井 そうですね。拡散ですね。それがだるまの産地になった一つの要因ですね。

 

福島 なるほど~。出会いですね。

 

今井 その人は金沢でやっていたけど何らかの理由でこっちに職人としてやってきて、職を求めたのか、何かいわれ・お告げできたのか、理由はわからないけどもそういった重要な人と巡り合あえたことはすごいよね。山県氏と葦名氏は高崎だるまの歴史でははずせない人物。それで木型が広まって、手張りでやっていけるようになった。

 

福島 それまで、どうに作っていたのですか?

 

今井 いや、同じですよ。一つ、二つの木型を大事に大事に使っていって、だからサイズもそんなになかったと思うんですよね。本当に手ごろなサイズだけがあったんだけれども、その人が木彫りでいろいろなのを彫ってくれるようになったから小さいのから大きいのまである程度できてきて、だんだん大きくするといいよ・毎年大きくしなさいって言われたのはそのぐらの時期からですね。昔はそんな今みたいに20種類もなかったですよ。

 

福島 今は20種類ですか!?

 

今井 今は20種類です。最大。その紙を剝ぎって作っていったらだるま市を中心にこの辺にたくさんあった養蚕農家の方に非常に喜ばれて、だるまを買っていくと蚕が、いっぱい糸をはいてくれて繁栄すると…七転び八起きと言われている事もあいまってね。それでこれを買って、凄いこの一年仕事があるよとかいうお礼がいっぱいきて…だるま市・七草大祭っていうのがいつしか少林山だるま市っていう風に言われるようになった。それで非常ににぎわった。

福島 ななくさ大祭があったのは今と同じ時期ですか?

 

今井さん ななくさ大祭は、少林山としては昔からやっている。北斗七星を祭るお寺で1月6日7日の夜中の2時に北斗七星お参りするいいことがあるっていう。

福島 それがもとなんですか?

 

今井 そうそう。毎年七草大祭をしているときに、そこでだるまも販売しなさいっていうことで始まって、後付けの販売で少林山七草大祭だるま市っていうことで昔は夜中の2時に本堂にお参りしてだるまさんを買うと一番御利益があると言われたんですよ。なかなか伝わりにくくなってるけど本来は後付け、後付けでこう・・時間をかけてきたというか。

 

福島 その山県朋五郎さんの話を聞いたのは初めてですね。

あ!前聞いた話で養蚕農家の人たちへのだるまに書く文字を教えてください。

 

今井 もともと葦名鉄十郎が彫った木型のだるまっていうのが今でいう丸形なんですけどそのころは眉型と言ってちょっと細長くて。

 

福島 くびれがあるってことですか?

 

今井 くびれまではないですけどちょっと細長い感じを意識していて、これは繭を意識して繭がたくさんとれるようにっていうことと、あとは高崎だるまは顔の横に祈願文字っていうのを書けるので養蚕農家のは蚕大当たり五穀豊穣とか書いてたんですね。時代に応じて皆さんの願い事を書き入れた。蚕大当たりが人気だった。

 

福島 蚕大当たりすごいですね。

なんとか大当たりって言葉いいですね~!

 

今井 今でいう、歌のヒット大祈願とか。時代に応じた願いの言葉を書き入れるちょっとしたカスタマイズ。その時代ごとに取り入れたっていうのも高崎だるまが継続して作られて発展している理由、顔は変えずに文字でカスタマイズしてお客様の要望を取り入れる。

 

福島 大当たりいいですね。なんか時代を感じさせますね。

今井 今でこそ養蚕農家はほとんどなくなったんでサラリーマンとか商売する人には商売繁盛・大願成就・家内安全・無病息災ってことを書いている。でも今後、そういう書かれる言葉とかも変わってくるのではないかと。でも原点に戻るべき言葉を見直すこともあるので、なんとか大当たりとか…。

 

福島 いいですね。

 

今井 時代に合わせた作り方になっていったのが継続してきた理由かな。

今井だるま店の変化とだるまへの思い

福島 その歴史を継承する立場になって、今までの大事にしたいこともあるけど、変えていかなきゃいけないこともあるって思いが今井さんの中で、強いんじゃないかと思いますが、その思いを聞かせてもらっても良いですか?

今井 もの心ついたときから朝起きると庭にだるまさんがいっぱい干してあって、学校から帰ってくると真っ赤なだるまさんがいつも作業場にあるとうい環境の中で育ちました。

 

福島 そのとき、専業ですか?

 

今井 専業になったのは小学校2年くらいのときだから、ものごごろつくかつかないかくらいのときだったのだけど、その時は専業のだるまに対して副業の畑をやっていたぐらい。このままだるま屋を継ぐのかなという漠然とした思いでやっていたのですけれども、それがいつなのか自分の中で全然決めてもいなかったし、答えも全然なかった。

まあそれなりに社会勉強が必要かなということでやっていたんですけれどもね。いきなり私の頭をガツンとこうたたかれたことがあった、だるまに対して。

まだ大学生のころ少林山のだるま市に行ったんですけれども高崎でもだるま市は一番大きいイベントで誰もがそこに行ってだるまをワイワイ買っていく…っていうのを期待して本堂の階段を上まで上り詰めたら、サッーとね非常に冷たい風を受けたっていうか寂しい絵を感じた。感覚だけの直観ですけれども「こんなになっちまのか!だるま市が!」って思った。時代の流れでしょうがないんですけれども、これは何とかしないといけないという思いが芽生えてきて、けど別に自分がそこにいてなにかでかい事をして変えようとも思ってもいなかったんです。

でもなんとかしなければいけないという思いがそれからずっと頭にあって、普通に大学卒業して就職したんですけども、何となくそれがずっと頭の中に引っかかっていて、3年サラリーマンの仕事をしたら、ちょうどいい時期かなと思って、だるまの職人の世界に入っちゃおうかな…ってなった。そのころ高崎だるまを作る業界も衰退しているし人も減っているし、だるま市の人手も減っているし、このままだと大変だという話も聞いてたんで、まぁ俺が何とかできる話じゃないんだけども、おやじが動けるうちにこの世界に入って、早めに俺が一人前になって入れ替わった方が自分の為にもなるし業界の為にもなるんじゃないかと思った。もっともっと俺は外で飛び回っていろんな仕事をしたかったんだけれども、逆に家に帰って礎を作ろうかと。

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福島 帰って来た時にそういうだるまの世界を何とかしようというよりはそういう覚悟で入ったんですか?

 

今井 最初は覚悟でしたね。俺は家でずっとだるまを作るんだ。どこもいかず派手な仕事もせず外も見ずにまずだるまを作って、今までやってきた親父の形態を丸々受け継いで、やってくべきなんだなという、覚悟。あとは新規開拓とか会社をどうにしてやろうとかはなかったので、まずは自分が覚悟を決めて一人前の商品になる。それが、25・6歳の時。

福島 26でのその覚悟ね。すごいな…。

でもそれじゃ、そういうままで終わりたくないっていう?

 

今井 そうですね。終わりたくないというか高崎だるまを発展というか、なんとか持ち上げていかなきゃだめだからって思って。もともとだるまって、たぶん同じことをしてきたんじゃなくて時代に応じて、環境に応じて、少しづつ変わってきたから今があるものだから、そういうものってこれからは何が必要なんだろうかって。でもまず、俺は一人前になることが、自分の中で、なんだかんだ言う前に必要だと感じた。一人前になるのは10年かかると言われていたから、じゃあ俺は5年で絶対一人前になってやるって心の中で、思って、誰にも言わなかったけど。5年で一通りできるようになって、外に行っていろんなことが言えるようにしたい。そうしてやっていたら不思議な仕事が来るようになった。本来のだるまではなくて、高崎だるまの製法でこんなものを作ってほしいとかあんなものを作ってほしいとかっていう仕事。高崎だるまの製法って意外とまんざらではなくて、もしかしたら画期的なことなのかなってその人に気づかされて。ただ昔から同じことをしていただけだから、もうそこの作り方自体かえていかなきゃいけないのかなっていう疑念があったんだけど、自分がやっているこの作り方、技術、原材料、その製法が実はすごい理にかなっていて、みんなからもっとほめたたえるじゃないけれど、素晴らしいですねと言われるような作り方なんだなとその人に教えられました。

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福島 それもおもしろいですね。

この伝統を守るというよりはこの伝統でいいのだろうか?っていう。

 

今井 そうそう(笑)

 作り方をどんどん変えていったりとか。形ももしかしたら変えたりしていくべきなのかなっていうどこを行っていいか全然わからない状態で…。

福島 迷っている・・

 

今井 そうそう。まずは自分で作ることだけど、自分で一人前に作れるようになったらそこは確信じゃないけれど、変えていくことが必要かなと思ってやっていたんです。それからうちの技術を上手に使ってなんか違うものを作ろうとしている、違う分野の人が来てくれて。

 

福島  なんか今聞いていて意外だったのが、いま今井さんがやっているのを見ていると結構攻めのスタイルじゃないですか?

 

今井 そうだね~。

 

福島 いろんなところに出て絵付けしたりとか。けど今井さんが引き継いだ当時は本当に下請けっていうか…

 

今井 そうですね。完全に下請けですね。

 

福島 本人たちからしたら誰が書いているかわかっているけど、買う人からしたら、どこで誰が、どんなふうに作っているのかわからずに、元請けが売っている商売ですよね。

 

今井 そうですね。ほとんどのお客さんの割合がだるま市が6割りくらい、お土産屋さんとかだるまを専門に扱っているお店が3割、1割は知り合いとか。ほぼ下請けというか卸でやっていた。一生懸命拡大しようとして動いてもすぐバッティングするんですよ。広げようとすると同業者同士の争いが起こるんです。

とった、とられたとか…そんなことをしていたんじゃこの業界はだめだと、もう全然違う分野を見つけていかなくてはだめだと思った。それで全然違う、たとえばホテルとかデパート、学習塾とかで売るとか画期的なことをパッと思いついた。あとは直接お客さんに売っちゃうとか、それでも1個1個やっていると大変だから、あとはおしゃれな雑貨屋さん、洋服屋さん、音楽業界など。今までだるまとは全然関係のないところにアプローチしていかないとダメなんだという感じ。やみくもじゃないけど自分が思うところに行って、人脈があったり無かったりするところもあるけれど、そこに飛びこんで行って「買ってください」って言うんじゃなくて、「だるまってこういうものなんです。こういう魅力があるんです。こういう使い方をするんですよ。」と話したら「それ面白いですね!」と食いついてくれるところに積極的に行き始めた。そこに行けば業者とのバッティングもないし、気に入ってもらえれば商談が成立する。これを地道にやっていくしかないと思ったね。すぐには実らなかったけれども、種まき時期だったんだろうね。

 

福島 それは何歳くらいの時ですか?

 

今井 30代後半くらいですかね~

 

福島 そこから10年もたってない?

 

今井 そうですね。おれは10年かかるのを5年でやって、大体だるま職人として一人前って言われたのが30超えて結婚してから5年で35歳くらいですかね。 それくらいから組合でも理事を任されたりいろいろ周りが見えてきて、これだったら動いても大丈夫かなと思った。だるま屋さんってこんなに若いんだって軽くあしらわれることもあったけど熱意と技術を紹介すると認めてくれる人もたくさんいるんで、35歳くらいからお客さんにたくさん来てもらいながらやってた。

最初のころ年末にデパートとか洋服屋さんから声がかかったりしていたんだけれど、だるまに興味が出たり皆さんがほしくなる時期って大体12月とかお正月で、その時期はいつでも一番ピークに忙しい。そんな忙しくて対応ができない時期に話がいっぱいが来るわけで、「すみません。忙しくていけません。」と最初は断っていたんですけど、ちょっと待て、一番向こうが求めているときに答えられなくてどうするんだ、そんな仕事を今後やっていてもだめだ、自分の都合のいい時に行きますと言っても意味がない、いかにこの大変な時期に営業ができるかどうかというのが、もしかしたら必要なのかなという。俺の判断もあるけど、一緒に働いてくれる職人さんの理解もあってのことですけどね。12月1月の一番忙しい時に東京とかで実演販売でみなさんの前で絵をかいたりとかサービスとかして一泊二日とかで毎週ぐらい行った。昔じゃ考えられない。12月に一日でも外に出れば「仕事になんねーぞ馬鹿野郎!」っておこられるような時期にあえて俺は泊まりとかで行ってね(笑) それが毎年行っているうちに今は継続的に動いてもらえているので、都内も結構たくさんやらさせていただいて。その時の売り上げとしては少ないけど、思い切りやったのが、今ちょっと芽が出てきたかな。

 

福島 それ全部営業でっとったんですか?

 

今井 いや、向こうから声かけてもらってて、昔だったら、そんな忙しい時にデパート行ったって売れやしないよ。うちで作っていれば金がかせげるんだから行かなくていいよというのがこの業界のルール。

黙っていてもお客さんはくるんだから、それで作らなきゃどうするんだって。で、ある夏になって来てほしいときにお客さんが全然こない。忙しいときにしかオファーはこないんだからそこである程度話聞くも必要かなって。

もちろん出て行って失敗したこともありますけどね。けどやっぱ続いたところがたくさんあって、それが礎となって、国内で高崎だるまと呼ばれるというよりも、今井だるまとか今井さんちのだるまと言ってもらえるようになった。

 

福島 うまくいった時とうまくいかなかったときの相手が求めている違いがあるじゃないですか。

どういうふうに違うんですか?何を求めてられているからうまくいくんですか?

 

今井 なんですかね。だるまが持つ本来の意味合い、手作りである程度いい意味でアバウトなんだよね。だから本当に厳格なものを求めている人からすると伝統工芸品だから何十年も継続しておいておけるものなんだ、1つの傷もあっちゃいけない1つの甘えもあっちゃいけないっていう作り物としてとらえられるとこれはちょっとだるまとして違う。本来手作りなんで、手作りの味があります。多少顔が違ったり色ムラもあります。そういうところを理解してくれた上で置いて頂いてる。だるまの中でモノもいいし今井さんの思いがこもっている、独創性があるって認めてくれる人は継続してくれる。全国の工業製品ととらえられた人はちょっとこれダメなのかなと思われるのかな。そこまでは、うちも合わせようとする必要もないし本来のだるまの良さを理解してくれる人だけにいい商品を提供し手を組んで歩いて行ければいいかなと踏ん切りをつけて。

 

福島 なかなかその今井だるまヒストリー聞いているようで初めて聞きましたね~。あんまり話さないですか?

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今井 話さないね(笑)ここまで踏み込んで話さない。

 

福島 苦しい時が、あったんですね。

 

今井 10年くらいは苦しいの連続でしたね。

今でも苦しくないわけじゃないけど。今ではではそれが面白くもあり、苦しくもありという感じ。自分の中であがきながら楽しみながらやっていたのかなって。

福島 希望は信じるけどなかなか見えないという感じですか?

 

今井 そうですね。

 

福島 今は希望が見えてきたという感じですか?

 

今井 そうですね。希望というかだるまをこれからどの方向にもっていけばいいのかっていうスタンスとか、どういう人にどういう風に伝えていけばいいのか?っていうのが少しづつだけれどつかめてきたので。

 

福島 今後はどういう感じで考えているのですか?

 

今井 そうですね。こんだけいい工房を構えさせて頂いたので実際にこの今井だるまの「NAYA」に足を運んでもらいたい。 今までは卸で、大量のだるまを作ってトラックで出荷させられればよかったんだけれどもそうじゃなくて1つ1つのものを丁寧に作ってお客さんにみえるようなだるまの販売をしたい。でもこれだけでは厳しいので、昔ながらの卸で納める、あとお土産屋さんに納めたりとかこういうのを継続しながら家でお客さんの顔をしっかり見ながら商売をしていきたい。お客さんの要望を取り入れたりして喜ばれるようなだるまさんを1つ1つ丁寧に作っていくことがこれから大切なんじゃないかな。

創作だるまについての定義

福島 今井さんちはだるまにいろんな種類があるじゃないですか?

ウエディング用とか企業からの依頼とか…

その中でこれが今井だるまの方向性というか、その一環とした思いはお客さんと一緒に作り上げる感じですか?

 

今井 今井だるまでは創作だるまをいろいろ作っているのですが、私が作る創作だるまには1つの定義があって、創作だるまに対してお客さんはそれに手を合わせられますか?願いをかけられますか?縁起物としての要素をそのだるまさんは含んでいますか?ということをデザインの中でやり取りをしてそこに落とし込んでいけるか確認をします。

例えばアニメのキャラクターのだるまとか作りますけれども、これは私の中のルールで縁起物としての要素は含まれています。

だるまさんに対してただおもちゃにしようとかではなくて、本来の高崎だるまの技術・原材料を使ってそのキャラクターにしている。下半分は高崎だるまの「福入」という文字をしっかり職人が手書きで書いてそこに福が入ってくる。そしてそのキャラクターとしての魅力がある。これが落とし込まれているから高崎だるまとコラボしていいんじゃないかって思っている。何がダメかっていうと、例えば自分のエゴな思いでこんなだるまがあったら面白いんじゃないかっていうもの。だるまなんかぐれている奴がいてもいいと思うんですよ、悪いことをするだるまが確かにいてもいいんだけれど、それはみんながみんなそのだるまにお願いごとできないんで、俺もそれを作っていて気持ちを込める自信がないとはっきりわかるんでそういうのはちょっとお断りをしています。あなたはそのだるまにどういう風に願いを込めてどういう人に勧めたいですか?っていう1つの要素。それで実際に話させていただいてわかりましたとお互いに理解出来たら創作だるまは製品になります。

 

福島 へぇ~ 理念ですね。

  

今井 そうしないと何でもできてしまう。高崎だるまは大量生産は厳しいけど1点ものならデザインも製法もわりと小回りが利いて受け入れ始めるときりがない。だから伝統的な部分は残しつつある程度現代の時代にそった願いがそこに落としこまれていればそれでOK。

 

福島 なるほど。それで全部出来ているんですね。願いがあるからそういったものも作るということですか?

 

今井 そうですね。だるまは願いを込めるものですから。縁起物であるということ、それがだるま。

 

福島 うちがかかわることによって今井さんちのだるまが世の中に対しいて知ってもらう機会のひとつになったらいいと思って。

 

今井 時代に応じてその時必要な人に出会うよね。こうして今のタイミングで直さんと出会ったからこういう素晴らしい工房ができたと思うし。

みなさんのおかげという言葉じゃもったいないくらい、出会いがいっぱいあって、いろんな経験をさせてもらって今がある。

 

福島 だるまさんを作っている人が不幸せそうじゃダメですよね。

 

今井 縁起物を作っている本人が縁起物じゃないと(笑)

この人に作ってもらえるだるまだったらうちに飾りたいって思ってもらえないと。そうじゃなければうちにこもってずっと作っているんですけど、これからはだるまではなくて作る人にも日があたるじゃないですけど、そういう職人として行動できるようにならないとだるまも伸びてこない。すごい人間になろうとは思ってないけれど、最低限、縁起物を作るものとしての心がまえとか立ち振る舞いとかそういうのくらい身に着けておかないとね。

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だるま職人の職人像

 

今井 高崎だるま職人と言われますが高崎だるま職人という言葉自体が最近の言葉です。

だるま職人という言葉を今後伸ばしていきたいと思ってます。

 

福島 今井さんは俺の思う職人とは違う。

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今井 俺は職人と思っているけれども、たぶん職人ぽくないのかな(笑)

 

福島 俺達も図面通りのものを寸分違わず作るとか、技術をとことん突き詰めるとか、それが職人じゃないですか。それもいいのですが俺はその慣習が逆に職人の世界を悪くさせている点もあるのかなって。腕さえあればいい、口なんか聞かなくていい、昔、物のない時代はそれでよかったのかもしれないです。でもこれだけ物があったらその職人がどういう思いで作っているのか、どんなこと考えてどんなものを作っているのかとか、発信していかないと。職人ってスタイルがすごく大事で、例えば作るものはすごいけどなんか作った人に会ったらあまり良い印象じゃなかったとかなんか悲しいですよね。

今井 先代は「職人なんだから黙ってだるまを作っていればいい、口のいい職人はいいものなんか作らない、とにかくいいものをコツコツと作っていればいい」っていう。確かにその思いもあったんだけど、だるまを作っているうちにしゃべらないといけなくなった、説明しないといけない、伝えないと…ってなって。じゃあ誰が伝えればいい?他にいないから作る人が伝えないと始まらない。それでしゃべり始めたら、現在に至るわけです(笑)

 

福島 ハハハハ(笑)

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今井 だるまの事に関してはね!他のところでは静かにね(笑)しゃべらざるを得ない環境。しゃべるとみんなが共感してして喜んでくれて、お客さんが「今井さんに教えてもらったからこのだるまが何倍にもよく見える」って言ってくれて、これは伝え続けないとなって感じた。それが俺を動かしているひとつの要素にもなってるかな。

今井だるまのこれから

福島 最初の方で祭りで非常に冷たい風を受けたっていうか寂しい絵を感じたと言っていましたがそれからどのように変わりましたか?

 

今井 俺が望むような風には何となくなってきている。それは急にではなく川の流れくらいの感じで…碓氷川の川の流れくらいには(笑)

 

福島 碓氷川?(笑)

 

今井 チョロチョロ~とゆーっくりってことね(笑)今時代はすごいスピードで動いているけど、伝統って急に変えてはいけない。ここまで培われてきたものもあって、たずさわる人もいっぱいいるんで急には変えられないので、ゆっくり変えていく。自分が思う理想地点があるから、そこにたどり着くまでに5年10年30年かかるかもしれないけれど、ずっと思い続けていってゆっくりと変えて行くことが大事だと思っている。今は確実に自分の思う方向に向かっていっていてたどり着こうとしている。

 

福島  今井さんの延長上にある夢ってなんですか?

 

今井 漠然としていますけれどもね。やっぱりだるまスタイル?だるまのある生活。

 

福島 だるまスタイル!?なんすかそれ!!(笑)かっこいい!

 

 

今井 ちょっとなんていっていいかわからない(笑)大げさかもしれないけれども、そういうのを日本でだけではなく世界中にも発信していきたいですね。例えばこの辺ですと正月にだるまを買い替えるじゃないですか。それだけではなく例えば結婚式にだるまを使ってもらう、お誕生日に使ってもらう、還暦の祝いに使ってもう、ちょっとした人生の節々など、これからはライフスタイルにどれだけだるまを取り入れてもらえるかっていうことをどんどん提案したい。

日本中、世界中に。

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福島 世界の中でだるまスタイルの実現楽しみにしています。

 

 

今井 ぜひ。またいらして下さい。

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